今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。
「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」
朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。
HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」
思わず朱莉はその名前を口にしていた――****
話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。
背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」
結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。
「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」
急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。
「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」
朱莉はポツリと呟いた。
****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」
秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。
(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしまうのか……いや、それにしても見れば見る程地味な女性だなあ。でもこの女性なら明日香ちゃんも文句言わないだろう)
「あ、あの」
突然朱莉が声をかけてきた。
「はい、何でしょう?」
(まずい……ジロジロ見過ぎたか?)
「あの……私、今までこんなに大手企業の面接を受けた事が無いので良く分からないのですが……通常、応接室で面接をするものなのでしょうか?」
「ええ。普通はこのような場所で面接は行わないのですが……実は今日の面接は副社長直々の面接なのです。その為、応接室をご用意させていただきました」
「えええっ!? 福社長直々にですか?」
余りにも予想していなかった事実に朱莉はパニックを起こしそうになった。
(そ、そうなんだ! まさか鳴海先輩直々に面接なんて……こんな事ならもう少しまともなスーツを着てくれば良かった!)
朱莉のオロオロする様子を見て琢磨は思った。
(あ~あ……。そりゃ驚くだろう。こんな大企業の面接でしかも社長直々にともなれば……)
「大丈夫です。それ程緊張する事はありませんよ。それでは私はこの辺で失礼致します」
(俺は巻き込まれたく無いからな! 翔……後はお前ひとりでやれよ!)
琢磨は逃げるように応接室を後にした。
応接しに残された朱莉は緊張で一杯だった。
(ど、どうしよう……。すごく緊張してきちゃった! と、取り合えず……深呼吸して……)
「ス~ハ~……」
――その時
ガチャリとドアが開けられ、鳴海翔が部屋へ入って来た。
「やあ、待たせたね」
にこやかな笑顔で朱莉に笑いかける。
(ああ……やっぱり間違いない、鳴海先輩だ。だけど、今は先輩後輩の仲じゃ無いんだものね!)
朱莉はソファから立ち上がって頭を下げる。
「初めまして、須藤朱莉と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ……いいよ。堅苦しい挨拶は無しだ。取り合えず座ってくれるかな?」
鳴海は朱莉の向かい側のソファに腰かけた。
「は、はい。失礼いたします」
朱莉もソファに座る。
鳴海は向かい側に座る朱莉の事をジロジロと見た。
(うん、やはり写真で見るよりも一段と実物は地味だ。全く女を捨てているような感じだな。化粧っ気も全然無いし……。こういう女の方がやはり扱い易そうだろう。よし……では彼女に決めるか)
「あ、あの……何か……?」
朱莉はあまりにもジロジロ鳴海が見るので戸惑ってしまい、声をかけた。
「ああ、すまなかった。君は理想の女性だったから……ついね……」
「え……ええ!?」
朱莉は突然かつて初恋の相手だった鳴海に理想の女性と言われ、顔が真っ赤に染まってしまった。一方、焦ったのは鳴海である。
(しまった! つい気が急いて誤解を招く言い方をしてしまった!)
「いや、失礼。すまなかったね。今の言い方は……君に誤解を与えてしまったかもしれない。え~この際、もう回りくどい言い方はやめるよ。実は今回の求人は中途採用募集の求人では無かったんだ」
「え!? そ、そんな……。では一体何の求人だったのですか?」
落胆を隠せず、朱莉は元気ない声で尋ねた。
「君に頼みたい仕事言うのは……うん、そうだ。これは仕事だと思ってくれればいい」
ポンと鳴海は手を打つと嬉しそうに笑う。
「?」
一方の朱莉は訳が分からず、居心地が悪そうにしている。一体どんな事を言われるのだろうか……。
「実は君に頼みたい事はね……。俺と結婚して欲しいんだ」
鳴海は朱莉の顔をじっと見つめる。
「え……? ええええっ!? け……結婚ですか!?」
(まさか初恋の人からいきなり結婚を申し込まれるなんて!)
朱莉は天にも昇るような嬉しい気持ちで一杯になったが、次の瞬間地面に叩き落されるような気持ちにされた。
「結婚と言っても偽造結婚だよ」鳴海は朱莉の嬉しそうな笑みを一瞬軽蔑するかのような視線で見つめ、衝撃的な事実を告げた。
「え……? 偽造……結婚……?」
(分からない。……一体鳴海先輩は何を言おうとしているの?)「そうだ。実は俺には愛する女性がいるんだが、どうしても今は結婚できない事情があるんだ。そして俺の祖父がその彼女と結婚させない為に見合いをいさせようとしていてね……何せ結婚をしないと会社を継がせないと言われたものだから先に偽装結婚をして先手を打とうと考えたのさ」
「……はい」
朱莉は只頷くしか出来なかった。
「謝礼金として君には毎月150万ずつ渡す。勿論会社のように夏、冬のボーナス手当としてその時は300万を渡すよ。その他必要な買い物等はこのカードで好きなだけ購入してくれて構わない」
そう言ってテーブルに置かれたのは、まさかのブラックカードだった。
「ブラックカード……」
話には聞いた事があるが、実際目にするのは初めてだった。
「俺が提示した金額に何か不満とかはあるかな?」
翔は朱莉の反応に注視しながら声をかけてきた。
「い、いえ。不満なんて……ありません」
朱莉は首を振る。
「偽装結婚の期間なんだが……う~ん……祖父の引退時期や体調の事……少し長めのスパンで見ておかないとならないから1年ごとの更新でどうだろう? 最長は6年……。君が30歳になるまでだ。これは契約結婚と思ってくれればいい」
そう言いながら、翔は朱莉の前に書類の束をパサリと置いた。
そこには『契約書』と記入された用紙も含まれている。「これは偽装結婚だから、実際には夫婦になる訳では無い。君には俺の購入したマンションに1人で住んで貰う。俺は君の下の階の部屋に恋人と暮すが、妻の役目が必要になった場合は、君の部屋に行って客を接待する事もあるかもしれない」
翔は書類1枚1枚チェックしながら、淡々と語っていく。その話し方はこれから偽装とはいえ、仮にも結婚しようとしている相手に対し、余りにも機械的な話し方でああった。
(先輩……やっぱり私の事これっぽっちも覚えていなかったんだ。それに恋人って……ひょっとして義理に妹の明日香さんの事……? だから結婚できないと言うの?)
朱莉はぼんやりと書類を指さしている翔の指先だけ見つめていた。
「おい、君。俺の話を聞いてるのか?」
声をかけられ、朱莉は慌てて顔を上げた。するとそこには冷酷そうな翔の顔が朱莉を見つめている。
「いいかい? こちらは急いでいるんだ。君が駄目なら他を探さないといけない。出来れば今、この偽装結婚の契約を交わすか交わさないか決めて貰えないか? これは、ある意味仕事だと割り切って考えて貰えればいいだけの話だ」
「仕事……?」
(偽装結婚が……私の仕事……?)
「あ、あの……今回の面接って……最初からこれが目的で求人を出していた訳ですか?」
朱莉はどうしてもそこだけは確認しておきたかった。
「ああ、そうだ。そうでなければ君のような人材に声をかけるはずは無いだろう?」
その翔の言葉は朱莉を傷付けるのには十分過ぎる言葉だった。
(そうだよね。……そうでなければ学歴も無い、資格も何も無い人間にこんな大手の企業が声をかけてくれるはず……無いよね)
だけど……。
病気で入院している母の為に新薬を試してあげさせたい。借金を全て返済し、母と二人で暮らしても十分な広さのあるマンションを借りたい……。 ずっとそう思っていた。(大丈夫、長くても6年だし……)
その時、ふと朱莉の目にある書類が飛び込んできて思わず目を見開いた。
「こ……これ……は……?」
震える手で用紙を取る。
「ああ、それか。その契約書が一番重要なんだ」
翔は溜息を1つつくと言った。
その書類には……。
『鳴海翔と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事。また、生まれた場合には自分が生んだ子供として公表し、1人で育てる事』朱莉はその文面を見て、目の前が一瞬真っ暗になった――
その頃、航と朱莉は江の島に来ていた。「ほら、朱莉。見て見ろよ。サザエのつぼ焼きだってさ、旨そうだな~」 駐車場の傍に立ち並んでいる店先でサザエを網に乗せて焼いている店を発見した航が興奮していた。「本当だ、磯のいい香りがするね。航君、食べたいなら買ってあげようか?」朱莉の言葉に航は慌てた。「な、何言ってるんだよ! 男が女に奢って貰うわけにはいかないだろう?」「え? だって今日は車だって出してもらってるじゃない。お金かかったでしょう? 高速代やガソリン代。だから食べ物のお金位出してあげるのに」「そういう問題じゃないんだよ。いいか? 朱莉。俺がお前を誘ったんだから、朱莉は今日は一切、金は出すな。分かったか? 第一……」航はそこで言葉を切った。(これは……朱莉はどう思っているか知らないが、俺の中では朱莉とのデートのつもりなんだから……!)そして思わず航は赤面してしまった。デート……自分で思った言葉なのに、何だか照れ臭くなってしまったのだ。 航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。背の低い朱莉は並んで歩くと航の肩に届くか届かないかの背丈しかない。身体も細く、華奢な身体つきで思わず庇護欲をかきたてられてしまう。(だからなんだろうな……。俺より3歳年上なのにちっともそう思えないのは……)それに今年で30歳なのに、とてもそんな年齢には思えない。朱莉は若々しく、本当に美しい女性だったのだ。その為か、今日は土曜日と言うこともあり、大勢の観光客が来ているが、朱莉の傍を通り過ぎる男達が朱莉をジロジロ見ているのが気に食わなくてしょうがなかった。(くそ……! なんだ、さっきの若い男。朱莉のことを凝視しやがって……!)「……君。ねえ、航君てば!」「え?」航は朱莉に袖を引っ張られて、我に返った。「な、何だ? 朱莉」「航君、さっきからずっと呼んでるのに無反応だったから……何か考えごと? それとも疲れてる? 疲れてるならどこかで休んで……」「い、いや。大丈夫だ。俺はどこも疲れていないぞ? それでどうしたんだ?」航は朱莉の瞳に自分しか映っていないのが嬉しく、ウキウキしながら尋ねた。「どうしたって言われても……。ねえ、航君。私達、これからどこ行くの? さっきから航君黙って歩いているから……」気付けば航と朱莉は1件の土産物屋の前に立っていた。「あ……」「ひょっ
「適当にその辺の椅子に掛けてくれ」事務所の中へ入ってきた美由紀に安西弘樹は声をかけた。「はい、失礼します」美由紀は背もたれ付きの長椅子に座る。目の前にはやはり長テーブルが置かれている。安西は部屋のどこかへ行ったのか姿が見えない。(へえ……航君……ここで働いているんだ)美由紀は部屋の中をキョロキョロと見渡した。部屋の造りはまるで学校の教室を思わせた。窓にはブラインドがかけられ、部屋の隅には大きな机にPCやプリンターが乗っており、ロッカーや本棚が壁を覆うように置かれている。「待たせたね」その時、部屋の奥から安西がやってきた。両手にはマグカップが握りしめられている。「どうぞ、私が自分で豆を挽いて淹れたコーヒーだよ」安西は美由紀の前のテーブルにコトンとコーヒーを置いた。「いただきます」美由紀はマグカップに手を伸ばし、口元に持っていくと匂いを嗅いだ。「すごい。いい香り……」ポツリと言うと、安西は笑みを浮かべた。「そうだろう? やはり挽きたてのコーヒーは香りが違うんだ」「そうですね」美由紀は一口飲んでみると、芳醇な香りと味がする。やはりインスタントとは違い、美味しかった。「美味しいですね」美由紀は顔を上げた。「そうかい、それは良かった」そして安西もコーヒーを飲むと美由紀に尋ねた。「美由紀さん。見てのとおり、今日航はいないんだ。どういう用件で来たのかな?」すると美由紀は肩をビクリと震わせる。「あ、あの……私、先週航君と別れたばっかりなんです……」「……知ってるよ」「で、でもどうしても会いたくて、いえ、会いに来たら迷惑がられるのは分かっていたので……だから遠目からで構わないから姿を見たくて……」もはや美由紀は自分が何を伝えたいか分からなくなっていた。伝えたいことは山ほどあるのに、頭の中で整理がつかない。慌てた様子の美由紀を見つめながら安西は口を開いた。「美由紀さん……つまり、君は航とは別れたけど会いたくてここにやって来たってことなんだね? それで航と寄りを戻したいと言うわけなのかい?」すると美由紀は俯いた。「寄りを戻す? 多分、それは無理です。だって航君……私と付き合っていてもずっと忘れられない女性がいたんですよ? この間、私と一緒に映画館に行った時……偶然その女性と再会して……大勢の人前にも関わらず……航君は女性を抱き
その頃美由紀は――(はあ……私ってダメな女だわ……)安西事務所のドアの前で溜息をついて立っていた。 美由紀は航と別れたショックで3日間、有休を取ってしまった。4日目から仕事に復帰したが、始終ぼんやりすることが多く、ミスばかりしてしまい5日目に上司に呼び出されてこっぴどく叱られてしまった。そして6日目の今日……。実に4年ぶりの一人きりの週末を迎えてしまった。美由紀は寂しさを紛らわせる為に金曜日の仕事帰りに大量に缶チューハイを買ってきた。そして土曜の朝からベッドの中でネット配信ドラマを観ていたのだが、全てが恋愛物だった。それを1人で観ているとむなしさだけが込み上げてくる。そこでコメディードラマに変えたのだが、少しも頭に入ってこないし、笑える気持ちになれない。結局美由紀は途中でドラマを観るのをやめて、スマホに手を伸ばした。お気に入りのアプリゲームを起動したが、それもやはり女性向けの恋愛シュミレーションゲームだった。「……もう!」思わずベッドの上にスマホを投げつけた。美由紀の頭の中は恋愛脳だったのだ。美由紀にとって、恋愛は人生全てを表していた。つまり、航を中心に世界は回っていたのだ。なので航を失ってしまった今、喪失感は計り知れないものだった。両膝を抱え、自分の部屋をグルリと見渡した。テレビを見れば、航と2人で観たことを思い出し、テーブルを見れば、2人でこの部屋で食事をしたことを思い出し……そして今美由紀が座っているベッドの上は……航に抱かれた記憶が蘇ってくる。「航君……」あれだけ泣き暮した美由紀の目に再びジワジワと涙が滲んでくる。「航君……もういやだよぉ……お願い……戻って来てよ……」美由紀はベッドの上に放り投げたスマホを握りしめ、航の電話番号を表示させた。そして震える手で画面をタップしようとして……手を止めた。「出来ない……電話したくても出来ないよ……。だってこれ以上しつこくしたら今度は本当に嫌われちゃうもの……」やがてベッドから起き上がり、目をゴシゴシと擦ると外出着に着替え、貴重品をショルダーバックにしまうと、ふらふらと玄関へと向かった――**** 気づけば美由紀は上野駅に立っていた。無意識のうちに航の住む上野へ足を運んでいたのだ。(話をしなくてもいい。せめて遠目からでも構わないから航君に一目会いたい……!)美由紀は急ぎ足で安西事
朱莉はマンションのエントランスの中で航と待ち合わせをしていた。どこにドライブに行くのかを聞いていなかった朱莉は動きやすいパンツスタイルにワンショルダーバックを肩から下げて航が来るのを静かに待っていた。やがて黒いワンボックスカーがマンションの敷地に入ってきた。「あ、あの車かな?」エントランスから出て見ると、やはりこちに向って運転しているのは航であった。航の乗った車はエントランス前で止まり、すぐに運転席から航が降りてくると駆け寄ってきた。「わ、悪い……朱莉。待ったか?」(朱莉には言えないな……着ていく服を迷って、アパートを出るのが遅くなってしまったなんて……)「ううん、大丈夫。5分も待っていないから」笑顔の朱莉を見て航は思わず赤面しそうになり、顔をそらせた。「よし。朱莉、とりあえず車に乗ろう。このままじゃ人目につくだろう?」「そうかな?」朱莉は首をかしげながらも車に近づき、助手席のドアを開けようとして……。「ま、待て。朱莉、俺が開けるから」航は朱莉の前に立つとドアをガチャリと開ける。「さあ、乗ってくれ」「うん。ありがとう」笑みを浮かべて車に乗り込む朱莉。朱莉の一挙手一投足すべてが航の胸を高鳴らせた。こんな感情を持てるのは、やはり朱莉だけだった。朱莉が乗り込むのを見届けると航も運転席に回り込み、ドアを開けて座るとシートベルトを締めて……固まった。(ま、まずい……。着ていく服を迷っていたから、肝心の行先を決めていなかった!)朱莉は運転席に座り、じっとしている航を不審に思い、声をかけた。「ねえ? 航君……どうしたの?」「あ! い、いや……! そ、それで朱莉……これからどこへ行こうか!?」航は引きつった笑みを浮かべながら朱莉を見た。「う~ん。どこでもいいんだけどな……。ところで航君。こうして2人でドライブなんて沖縄にいた時を思いださない?」「沖縄か……うん、そうだな。言われてみれば確かにそうかもしれない」(思えばあの時が俺にとって人生で一番幸せだった時間かもしれない。朱莉と初めて沖縄で出会って、居候させてもらって……そして……朱莉を好きになって……)だが、その反面自分は何て薄情で最低な男なのだろうと思った。4年も付き合った美由紀と先週別れたばかりで、もうこうして朱莉に会いに来ている自分がいるのだ。我ながら、最低ぶりに溜息を
「ははあ~ん……さては図星だな」「な……!? と、父さんには関係ないだろう!?」しかし弘樹は続ける。「どうしたんだ航。お前にしては随分長く交際が続いているとは思っていたが……あれか? もしかして倦怠期でも入ったか? もうお前達、付き合い始めて4年になるしな。お互い本気ならそろそろ結婚を意識しても……」「もうその話はやめてくれ!」航は大声をあげて弘樹の言葉を制した。その様子を見て弘樹はピンときた。「おまえ……ひょっとして美由紀さんと別れたのか?」「……」しかし航は答えない。「ふむ……答えないってことは肯定を意味しているってことだな? 一体何故別れたんだ? お前たちお似合いだと思っていたのに……もしかして航。お前振られたのか?」「……違う。俺の……俺のせいだ」航はボソリと呟くように言った。「まあ……お前ももう大人だ。俺がどうこうと口を挟むことでは無いが……仕事はきちんとやれよ?」「分かってる……そんなこと」「今日は定休日だし、気分転換にどこかへでかけたらどうだ? 車なら貸すぞ?」弘樹は航の前に車のキーを置いた。(そうだな……気分転換にどこかドライブにでも行ってみるか……)「ありがとう、それじゃ車借りるわ」航は車のカギをジーンズのポケットにねじ込むと、事務所を後にした。 部屋に帰った航はじっとスマホを握りしめていたが……深呼吸すると航はスマホをタップした――**** 掃除、洗濯を終えた朱莉はミシンで縫物をしていた。蓮が幼稚園に通い始めてからは少しずつ自分の時間が取れるようになった。そこでミシンで蓮の通園バックやちょっとした洋裁をするようになっていたのだ。今、朱莉が作っているのは蓮の為の巾着式のランチバック。大好きなアニメキャラクターのデザインの生地でランチバックを縫い上げる。後は2本の紐を通せば完成だ。「フフ……蓮ちゃん、喜んでくれるかな?」朱莉が笑みを浮かべると、突如スマホの着信が鳴った。(もしかして明日香さん? 蓮ちゃんと何かあったのかな?)朱莉は急いでスマホを確認すると、それは航からであった。「え? 航君?」朱莉はスマホをタップすると電話に応じた。「はい、もしもし」『……朱莉か?』「そう、私だよ。1週間ぶりだね。航君。今日はどうしたの?」『い、いや……今、朱莉は何してるのかなと思って……蓮と一緒なんだ
あれから1週間の時が流れた。 土曜日の7時ーー「お母さん、それじゃ行ってきます!」蓮がリュックを背負い、明日香に手をつながれマンションの玄関で朱莉に手を振る。「はい、行ってらっしゃい。蓮ちゃん。それでは明日香さん、よろしくお願いします」「ええ、大丈夫よ。任せてちょうだい」明日香は大きなキャリーバックを持ち、Tシャツにジーンズ、そしてスニーカーと普段ではあまり見せないようなラフなスタイルだった。「僕、すっごい楽しみだな~キャンプでお泊りなんて初めてだもの」蓮は目をキラキラさせた。「フフ……蓮君。キャンプと言ってもすっごいのよ。『グランピング』って言って大自然の中に綺麗なホテルのようなお部屋があるの。お風呂もついているし、バーベキューもすぐできるのよ。近くには動物園と水族館があって、餌やりの体験もできるんだから」明日香は蓮の手を握りしめている。「うわ~い、楽しそう。早く行こう!」蓮はすっかりはしゃいでいる。「蓮ちゃん。楽しんできてね?」朱莉は蓮に声をかけた。「うん、お母さん。お土産持って帰ってくるね」「ありがとう。楽しみにしてるね」蓮の頭をなでながら笑顔を向ける朱莉。「よし、それじゃ蓮君。行こうか?」明日香に促され、蓮は頷くと元気よく朱莉に手を振って2人は朱莉の住むマンションを後にしたーードアが閉められ、1人きりになると朱莉は溜息をついた。先程迄にぎやかだった部屋が途端に静まり返る。部屋の奥では時折ゲージの中で動き回っているネイビーの気配はあるものの、寂しいほどの静けさが部屋の中を満たしていた。蓮は明日香の誘いで、今日から1泊2日で千葉県にある『グランピング』に泊りで遊びに出掛けることになったのだ。この話が出たのは月曜の夜で、突然明日香が朱莉と蓮の元を訪ねて提案してきたのだ。蓮と2人で1泊2日で千葉の『グランピング』施設に宿泊したいと申し出があった時……正直朱莉は迷った。蓮はまだ4歳。朱莉と丸1日離れた経験は無い。それなのにいきなり明日香と2人きりで宿泊などして大丈夫なのかと不安がよぎった。しかし蓮はとても行きたがり、明日香からも頭を下げられた。それによくよく考えてみれば明日香と蓮は実の親子。2人の旅行を朱莉に止める権利など無かった。それで朱莉は2人での旅行にうなずいたのだった。(蓮ちゃん……夜、おうちが恋しいって泣